山本一義さんが、亡くなりました。

9月17日、ガン(尿管がん)で。
78歳でした。

一週間前の9月10日、広島カープが25年ぶりに優勝しました。
祝賀ムードに水を差したくないという気持ちから、遺族が公表を控えていたそうです。

優勝したということは、知っていたのでしょうね、きっと。
心配りのある人ですね。

わたしが、強烈に憶えているのは、いつだったかは忘れましたが、強烈なライナーを打ちました。
ショートライナーかと思いましたが、打球はグングン伸びてライナーのまま左中間スタンドに突き刺さりました。
ひょえーーーー、あんな打球がスタンドまで飛んでいったよ。
と、思ったものです。

山本一義さん、カープが初優勝した1975年(昭和50年)に引退しています。
この年、カープ初優勝記念のレコード(VICTORY CARP やったぜ!赤ヘル軍団)に守屋浩が歌った大学数え歌の替え歌で、カープ選手数え歌に音声が残っています。

歌詞は、
十とせ
とことんバットで生きてきた
カズさんほんまのいぶし銀
ソイツァ豪気ダネ ソイツァ豪気ダネ

この歌詞のとおり、いぶし銀でした。

そして、亡くなったのが、25年ぶりに優勝した年です。
まさにカープ一筋の選手でした。

※山本一義
広島商高から法政大学を経て、1961年(昭和36年)広島カープ入団。
強打の左打者として1年目から89試合に出場し、15年間で5回、打撃ベスト10入り。
ベストナイン2回、オールスター戦5回出場。
通算1594試合、1308安打、打率2割7分、655打点、171ホームランの成績を残しました。

こんなエピソードがあったようです。
1961年のプロ入りに際しては、高校、大学の先輩である鶴岡一人さんが監督をしていた南海への入団が決まっていました。ある日、広島県出身で後に首相となる池田勇人通産相(当時)に呼び出され、カープ入団を説得されました。
「故郷を捨てるな、帰ってきてほしい」と。
翌日、両親に相談しようと広島駅へ着くと、ホームは人人人であふれんばかり、入団を期待するファンが大勢集まっていました。
その光景に感動した山本一義さんは「帰らなければ男じゃない」と広島入りを決断したそうです。